天気予報

 今日は朝から随分寒い。昨日より最高気温が10度低く2月中旬なみとテレビが伝えていた。天気予報はテレビ、ラヂオ、ネットなど通信媒体によりいつでも見聞きする事ができ、便利でより正確になった。それは気象衛星”ひまわり”から送られてくる日本域の静止画像解析によるものらしい。
 私が関心するのはその後の予報である。
 刻々と変わる現在の情報に過去のデータを突き合わした推論をコンピューター処理により短時間に正確な判断が出来るようになったのかも知れない。
 一方、各メディアは競ってきれいなお姉さん方(気象予報士)を画面に登場させる。
 お姉さん方に気をとられ大事な情報を見過ごす事さえあるのは私一人ではなかろう。
 昔の天気予報はNHKのラヂオ放送が定番でニュースの前に必ず放送されていたような気がする。しかも男性アナウンサーによるものであった。
 いつ頃から気象学の研究が始まったのか興味をひかれる。
 農耕民族である日本人にとり、こよみと農作業の関係は深いものである。こよみは月の満ち欠けを利用した太陰歴であった。実質的なずれを補正するため”うるう何月”まで設ける始末となったが明治維新後外国にならい1872年(明治5年)太陽暦いわゆる西暦が採用された。
 その後天気予報は1884年明治17年)に始まりNHKのラヂオ放送は1925年(大正14年)に開始されたので庶民が天気予報を知るのはこれ以降であろう。

 天気が合戦に大きく影響したのは2度にわたる蒙古襲来である。1274年は10月、1281年は7月の暴風により日本は救われた。台風か発達した低気圧によるものであろう。人々はこれを神風と呼んだのはこの頃の事である。

 戦国時代の合戦と天気の関係は、1555年10月の厳島合戦があげらる。陶晴賢の2万の大軍を毛利元就4千の軍で破ったのはやはり暴風下に小早川隆景村上水軍を伴った奇襲作戦によるものである。水軍は船の航行の安全のため天気を予知する能力が陸軍よりたけていたのだと思われる。
 もう一つ秀吉が毛利軍と対峙し備中高松城を水攻めしたのは1582年6月の梅雨時期である。もしこれが空梅雨であれば成功はしなかったかも知れない。この時の作戦参謀は黒田官兵衛である。当時軍師と呼ばれる人は気象を予知する能力が優れていたのだろう。