江戸の危機管理、安政江戸地震に学ぶ

昨日NHK知恵泉を見た。

安政2年(1855年)11月11日午後10時頃震度6の江戸の直下型地震が発生した。

地震の概要[編集]
 特に強い揺れを示したのは隅田川東側(江東区)であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる[6][7]。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及ぶ。
 近代的な観測がなされる前(明治17年以前)に発生した歴史地震であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や前兆現象の記録などから、北アメリカプレート内部の内陸地殻内地震(大陸プレート内地震)、北米プレートに沈み込むフィリピン海プレートによるプレート境界地震フィリピン海プレート内部のスラブ内地震、北米プレートに沈み込む太平洋プレートによるプレート境界地震などと推定されている。震源東京湾北部・荒川河口付近、または千葉北西部と考えられている。
 震源の深さについても諸説あり、深さ約40km以下の浅い場所で発生したM6.9の地震とするもの[9]、フィリピン海プレート上面で発生したプレート境界型地震[10]、古記録から初期微動の継続時間が約10秒と読み取れることから深さ100km程度[11]、などである。

知恵泉で放送された内容は震度6強で1万4000戸倒壊震度6.5の被害を受けたのは丸の内等の埋め立て地が多く、大名屋敷などがとくにひどかったらしい。
 老中、若年寄などが被害を受けたが翌朝すぐさま江戸城の参内し将軍の無事を確かめたあと対策本部を立ち上げ被害の状況把握に努めた。

 この点どこかの県の行方不明になった知事とは大違いである。 

 これは平素からのコミニュケーションの良さが結果をもたらした。
 第13代家定のもと
 1)復興対策本部の設置
  2)リーダーの交代

    阿部伊勢の守からベテランの老中堀口に交代

 3)69.6憶の資金支出

   等々の手立てを打ったとされる。

 一方町民の被害は市中30か所で火災発生、土蔵の壁崩落等により4690人の死者をだした。被害掌握は大家、名主、町奉行の順に手続き行われた。

  夜明け前から救済ははじまり5か所で炊き出しが行われ20万人、仮設住宅5かしょ(1000坪)が半月で準備

 これだけの手が打てたのは災害の特に多かった江戸中期の慣れと備蓄米などの準備が行われていたらしい。

 桜を見る会」で税金を使い飲み食いをして大騒ぎする政府も見習って学んでほしいものである。この時代は現在とよく似て台風による河川の氾濫など多くの災害にみまわれている。