老友アントニオを偲ぶ(その2)

 スペイン語でinundacion は洪水でinagracionは開会式である。

 当時それほどスペイン語は上達しておらず、アントニオに随分からかわれていた。

それでもアントニオはスペイン語の先生であった。

彼はいつも手帳を持参していてスペルを書いて教えてくれた。

 彼の生まれ故郷オニャテにはまだ家が残り家具一式が残っていた。

 その場所に行ったことがある。

 ベッドメーキングは子供であろうと自分の仕事である。

 単純でつらい仕事(そうも思えないが)中に鼻歌で作業をすることが彼の習慣だと言う。

 アントニオは絵はそれほどではないが年配だけあって多趣味である。

 当時画像処理のソフトを持っていて私に教えろとせがむ。

しかしその頃は画像処理をよく知らなかった。

 スペインで70歳を過ぎた老人が画像処理を行うとはアントニオはさぞかしインテリなんだろうと思えた。

妻セシイがこぼすにはごみ処理場から使えると思う品々を家に持ち帰り地階のもの置きに貯めるのでものが増えて困ると言っていた。

 ある時サンセバスチャンで写生大会がありアントニオと出かけた。

 参加者は100人はいたと思う。ある公園を閉鎖してその中で絵を描く大会である。

 キャンバスの裏側に大会の参加印鑑が押されている。

アントニオは大きな絵を描かないと入選しないとアドバイスをもらった。

 12号のキャンバスに絵を描き始めた。途中雨が降り出しさんざんな目にあった。

 アントニオはと言うと審査員の目をくらまし自宅に帰り絵を仕上げて持参した。

 結局アントニオと私は選外作品となった。

 2011年に再びサンセバスチャンを訪れ、アントニオの家に電話を入れるとセシー夫人はアントニオは昨年亡くなったという。私が帰国したのちアントニオは心臓の手術をしたそうでまだ生きているとメールを送ってきたことがある。

 おそらく80歳は超えていたのだろう。

 彼の車であちこち連れて行ってもらった事があるが待ち合わせ場所にいつも遅れるので随分怒られたことも今になっては良い思い出である。

 孫がパラリンピックのスキーで金メタルをとったことがあると写真を見せてくれた。

 セシーに結婚していつが一番幸せかと質問したことがある。

 スペイン内乱を経験してバスク人は大変苦労したらしく今が一番幸せだと言っていた。

  今では思い出の中にしかいないアントニオであるがなんと懐かしく思う。