「年寄りのやりがい」独り言

 自分の事を高齢者とか年寄りとかさらさら思ってはいないが、謙遜を含めそう呼んでいる。
 昨日から思っている事に、この年になってヤリガイとは何ぞやと質問を重ねている。
 働く事が一番良いと思っているが、ここ半年で2種類の仕事をミスってしまった。
 一つは襖や障子張替で自分に一番よくあっていると思った。
 実際自宅の障子・網戸の張替は全部自分が行う。
 職場で見学から見習いを経て、商品の配達中2階への急な階段を障子を抱えて上る事に待ったがかかった。
 脊柱管狭窄症で長く左足をかばってきたため筋肉が激減して太ももが随分やせてしまった。通常歩行してもおかしい。階段の上り下りは片脚づつの動作で、ましてや襖や障子をすいすいと運搬することは無理であり、迷惑をかける前に辞退した。
 仕事開始3日目の事であった。見学から2カ月目。

 他の1件はマンション管理人の仕事でその説明会に参加する時、脊柱管狭窄症の激しい痛みを感じた。幸い痛み止めを服用しているため日中はさほど痛みを感じないがそれでこれも早めに辞退した。

 高齢者でも健康な人なら幾らでも仕事がある世の中。そうでない人には試練である。関係省庁でさえ障害者の雇用登録をごまかす時代、準障害者には仕事は回ってこないだろう。

 そう言いながらクーラをつけテレビの番人を毎日続ける事では、何をやっているのかと自虐する気持ちになる。
 それなら自分にあったヤリガイとは何だろう。
 実はブログで「スペインで就職を」回想録の文字デジタル化をほぼ1ヶ月かけてやり終えた時にヤリガイらしきものを感じた気がする。
 今日も明日も、やる事を心配せずに暮らせる事がヤリガイのハシリなのかもしれない。例えば油絵を長期にかけて描く、エッセイを書く、大工仕事で何かを作る。全て創作なのではなかろうか?頭と体を動かして連続性を持った毎日を過ごす事なのかも知れない。

  家族のためではなく、自分のために何かをやり残す。
  死後は全てガラクタとして捨てられる運命ても良い。お金の為にやる事ではない。(お金のためが望ましいが世間は認めない)創作の世界にお金が入る込む余地はない。

  その最たるものが楽器演奏だと思う、下手でも演奏と言う単語を使わせてもらうと、演奏中は空気をゆるがし音になるが停止すると何も残らない。
  そういう儚いものがヤリガイなのかも知れない