今日は母親の27回忌の法要も無事すんで自宅でくつろぎながら音楽を聴いていた。
最初は池上線とか昭和の歌であったが行きついたのは竹田の子守歌である。
竹田とは大分県の竹田とてっきり思っていたが京都・伏見区の竹田と注釈をみて
探してみた以下にのべる。
竹田の子守唄
「竹田の子守唄」 | ||||
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赤い鳥 の シングル | ||||
B面 | 「翼をください」 | |||
リリース | ||||
規格 | シングルレコード | |||
ジャンル | 民謡 フォークソング |
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レーベル | リバティ(東芝音楽工業) | |||
作詞・作曲 | (日本民謡) | |||
チャート最高順位 | ||||
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赤い鳥 シングル 年表 | ||||
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みんなのうた 竹田の子守唄 |
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歌手 | ペドロ&カプリシャス |
作詞者 | 京都竹田地方の子守唄 |
作曲者 | 同上 |
編曲者 | ヘンリー広瀬 |
映像 | 実写 |
初放送月 | 1974年12月-1975年1月 |
再放送月 | 2015年10月-11月(ラジオのみ) |
その他 | 1981年9月23日の『みんなのうた20年』で放送(4番は除く)。 |
竹田の子守唄(たけだのこもりうた)とは、京都府の民謡、およびそれを基にしたポピュラー音楽の歌曲である。赤い鳥をはじめ、日本のフォーク、ロック歌手たちによって数多く演奏されている。
複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われている[1]。
明治時代中期の発祥とされるが、題名にある京都市伏見区竹田地区の住民が実際に唄っていたのは、昭和初期に10代だった世代までであった[2]。
唄が広まる経緯[編集]
1964年12月[3][4](または1965年1月)、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品である住井すゑ原作の『橋のない川』で、尾上和彦が多泉和人(おおいずみ かずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり、主題に即した曲を使おうとしたが[5]、尾上は部落問題を肌で感じることができておらず、実感を得るため、別の仕事で訪れたことのあった被差別部落の一つの京都市伏見区竹田地区にある部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母親から、情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったものである[6][7]。
日本国民でこの曲・歌詞を知らない人はいないほど歌は広まっている。
しかしこの歌の背景には悲しい物語があろうとは思ってもいなかった。
まあこの年になるまでこの歌の歴史を知らないとはなんと情けなく感じる。
この歌が訴える哀愁はペルー民謡「コンドルは飛んで行く」に似ているようにも思えるがかってな思い違いなのだろうか?